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HISTORY

高田惠圃 作(1824-1879)
高岡市立博物館所蔵

高田製作所のはじまり

幕末から明治初期にかけて、欧米先進国では日本美術のブームが起こっていました。当時、ヨーロッパ各地で行われた万国博覧会には、その波に乗って、彫金、象嵌着色といった、美しい細工が施された高岡の銅器が多数出品され、芸術的に高い評価を受けました。贅を凝らしたそれらの装飾からは、その頃からすでに高岡の職人たちが高度な技術を持っていたことがうかがえます。

その時代には「工芸品の価値を高めるのは絵画などの美術的意匠である」という芸術潮流があり、作品に花鳥風月といった日本的情緒を表現してさらに芸術的、狩野派や丸山四条派などの画家たちが銅器や漆器の図案を描いていました。その中に、高田家の祖、高田惠圃(1824-1879)がいました。惠圃は、高岡最初の街絵師といわれる堀川敬周、京都の丸山四条派、小田百谷に師事。高岡画壇において花鳥人物を得意とする画家であったといわれています。彼は、当時高岡で製作されていた銅器、漆器、仏壇などに、装飾のための工芸図案を数多く提供し優れた美術工芸品の創出に貢献しました。惠圃の息子、高田忠三郎もまた、美術に造詣の深い惠圃同様、彫金技術に長けた象嵌師でした。彼は県内外で開かれた品評会に出品し、数々の表彰を受けています。

時代が移り変わり、当社の創始者、高田健は、幼少時、生まれ育った新潟から単身満州に渡りました。満州事変をきっかけに名古屋にもどった健は、第二次世界大戦中陸軍造兵廠において大砲づくりに従事。そこで、身の締まった砂型鋳造技術を習得します。そして、戦後の復興と共に、高岡の地に仏具製造から高田製作所をスタートさせました。

日本絵画の芸術的な要素を必要とする、優美で繊細な工芸図案、類まれな彫金技術。そして、高度な鋳造技術と普遍的で静謐な美しさが必要とされる仏具製造。絵師、職人と連なる系譜は、美しい形を表現するために生み出された技術と美を追究するDNAと共に、今も受け継がれています。